文月悠光

読みもの

無名であったころ

文月 悠光

音を拾いはじめたマイク、

きみは忠実に話す。

これはテストではない。

落とされた影、

光はもう降りそそいでしまった。

一身に浴びてわたしたち

いびつなスクリーンとなる。

「痛みもありませんでした。

はおればやさしい袖口でした」

 

その席に腰かけるたび、

同じ光景が繰り返された。

吹き寄せられた男女が

珈琲を飲みながら別れの算段を立てる。

その横で給仕たちのささやき。

(押し殺せない)

これらをバックに、わたしタップを踊ろう。

選べなかったかなしみについて

とぎれとぎれにうたう。

 

病めない賢明さを守り抜くとき、どれほどすこやかでいられるだろう。

朝の改札口に研がれて、削り節のように人の手足が増える。

ふわんと風に飲まれて消える。

引き留めたくて向き合いたくて、もどかしく思うけれど、誰の前にも立ちはだかれない。

吸って吸われて空気、歪みはじめている。

ここへ生まれてきたのに流れてしまった。

ひたすらに追うだけだから、追い抜くことはしないから、誰も逃げなくていい。

果てるまで、歩き続けよ。

きょうもたくさんの背中に出会えて、わたしはたぶん、満たされた。

 

まぶたをおしあげる力が

この星をかたちづくった。

空が、月が、海が、できていくのを

わたしたちは尾を振りながら見ていました。

土と契約し、

雨と契約し、

風と契約し、

記述できないまなざしを交わし合った。

世界が無名であったころ、

わたしたちの血は

見えない宇宙にも流れていた。

星明かりがその証、と

指さし教えてくれたのは

どうやら、かつての母でした。

 

なくしていたことばが

今にして思い出されて

のど奥へ熱いものがおりてくる。

知らぬ間につっかえていた。

「ひとりになること」と、

「ひとりでに消えてしまうこと」を

分けて遠ざけなくてはならない。

 

支えつづけていたつっかい棒を

取り下げて走る。

倒れはじめるビルたちを尻目に

尾を振り立たせ、わたしは吠えた。

つくりなさい、

ここを家だと言いなさい。

目を見ていれば

名前はいらない。

きみはきみに忠実に話せ。

わたしはそれを音楽にしない。

 

 

(初出:「ユリイカ」二〇一四年一〇月号)

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